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講師からのご挨拶

音楽を通じて幸せになることをサポートしたい。
人に優しく、自分に強く、人間的にも輝く人を育てたい。
音楽で人の心を動かす事のできる人間になって欲しい。

森田遊

東京ミュージックスクールYOU
徳間ジャパンコミュニケーションズ遊プロジェクト
代表『森田遊』

 21世紀に入り早くも6年が過ぎました。不況、リストラと世間では言われている一方で、 インターネット、周辺機器のデジタル化と情報社会、そして戦争、人間にとって“本当の幸せとは何か”と 考えさせられずにはいられません。なんでもないことでキレて平気で人を殺したり、その場の快楽だけを求めて薬に手を出したり、 はたまたインターネットの出会い系サイトで、顔も分からない相手と疑似恋愛をする。この10年でずいぶん世の中は変わってしまいました。

 「心の病」という言葉も今では当たり前のように聞きます。音楽業界も不況、不況と言われ続け、一部のアーティスト以外、CDの売り上げは減少の一途をたどっています。
アーティストにかける宣伝費を削減するため、近年では20年前の歌がベスト10に入るというリバイバルブームも、どこか時代を象徴している気がします。また、夢を追う少年・少女の心を利用し多額の金額を請求する悪徳プロダクション等、この手は後を絶ちません。
こういう時代だからこそ我々大人は、少年・少女だった頃の純粋だった汚れない心を思い出し、人を大切に想う思いやり、 愛せる心、夢を追う勇気を子供達に伝えていかなければならないと私は思います。特に最近は雑誌に載っている 信用あるオーディションでさえ“第一次に合格しました”と応募者に期待をかけさせ、後日多額の登録料やレッスン費などで お金を取るところが実に多いのが現状です。こういうところも私は生徒を守るため良いオーディションと悪いオーディションの見極め方を教えていきます。

 私事で恐縮ですが、どのような経いで、自分が音楽を目指し、打ち込んできたか、少し長いですが書かせていただきます。
 小さい頃、親からピアノを習わされ、男ですから当然のごとく、小学校5年生で嫌になり、野球少年だった私は、中学校では野球に打ち込み、 高校ではバトミントン部に入り、3年生の時は神奈川県大会のシングルベスト8に入るほどスポーツに燃えていました。ちょうど中学校3年の時、 当時全く売れてなかったTULIPの財津和夫、オフコースの小田和正がピアノを弾きながら歌っている姿に衝撃を受け、“この人達みたいになりたい”それまで 眠っていた音楽の血が、私を再びピアノを弾く決意をさせました。スポーツを一生懸命しながら、常に音楽を聴き、その頃から音楽大学を目指し、 運良く現役で音大に受かりました。しかし何事も充実していた私に、生まれて初めての挫折が来ました。

 私が大学一年生の1月1日に3歳年下のたった一人の弟をバイク事故で亡くしました。両親、私はその日からどん底に突き落とされ、 “自分の人生は終わった”と、そんな日が続きました。当時の弟の友達の涙と叫びは、今でも私の脳裏にしっかり刻み込まれています。 しばらく無気力に過ごしていた時期に少しだけ私の心を癒してくれたのは、やはり音楽でした。そして弟の無念をはらすために、 私が彼の歌を作って、弟がこの世に生きていたという証をずっと語り継がれるようなアーティストになりたいと、強く強く思いました。 この頃から洋楽、ジャズ、スタンダード、フュージョンと様々な音楽をたくさん聴きました。私は、60年代、70年代、 80年代の音楽は(洋楽、ポップス、ジャズ)はすごく重要な役割をしめていると思います。様々なアーティストの音楽を皆さんに教えていきたいと思ってます。

 話は戻りますが、昼は音大でクラシック、夜はジャズピアノの専門学校でピアノ、編曲を勉強し、自分のピアノ、 作曲、歌のレベルを上げる事だけ考えて、大学生活は終わりました。卒業後、生活のため夢を追いつつ、都内の一流ホテルのピアノ弾きと、深夜は、一流クラブのピアノ弾きと仕事をし、三年くらいあまり休んだ記憶はありません。仕事場で毎日、ピアノを聞いている人に、曲のリクエストをもらうのですが、“この曲は知らないし楽譜もないので弾けません”などというセリフは決して許されない世界でした。最初の頃はお客様から“へたくそ”etc、色々ののしられ、そのたびに、“今に見ていろ”とピアノの練習にエネルギーをそそぎました。自分の練習と仕事のピアノで1日10時間ぐらい毎日弾いていた気がします。なんとか3年乗り越え、やはり生活費を稼ぐため、夢のシンガーソングライターよりもPIANOの仕事を優先させ、がんばりました。ちょうど25歳の頃、プロダクションから有名歌手のキーボードとして、抜擢してもらい、3年間は、全国ツアーの連続で、南から北への旅で、それこそ音楽漬け、ピアノ漬けでした。コンサート会場では大ホールで2000人くらいのお客様のまえでピアノを弾いていたのですが“このままでは僕の夢は、叶えられない”と思うようになりました。そんな時、深夜仕事帰りに東名高速道路で、大型トラックが横転するという事故に巻き込まれてしまいました。奇跡的にも九死に一生を得ましたが、今から思えばあの事故で生きていることが不思議です。事故の衝撃で首にすさまじい激痛が走り、あとは恐怖と痛みで救急車に乗った以外、あまり思い出しません。しかし、その事故の後遺症で私は完全に心と体のバランスが崩れてしまい、それから数年間、突然息苦しくなり、体が硬直してしまい、今にも死んでしまいそうな苦しい発作がおきるようになりました。しかしどこの病院で検査をしても原因不明で、あまり相手にされず、それこそすがる思いで、東洋医学、その他ありとあらゆる方面で、治療を受けましたが治りませんでした。何年かたって最後に頼った精神科の先生に“事故による極度のむち打ち症と精神的なダメージから体が苦しくなるパニック傷害”と診断された私には薬を飲むしか道はありませんでした。薬に対する不安はもちろんの事、音楽の仕事をやりながら体をだましだまし過ごしてきた数年間は言葉ではいいようのない苦しさと絶望感でした。10年前神戸の地震で被災された方は、今でも私と同じ症状になった方がたくさんいると聞いたこともあります。人間の心と体は本来はとてもデリケートで、深く深くつながっていると改めて思います。しかし人間というものは、 また不思議なものでやがて私もだんだんとその苦しい症状とうまくつきあえるようになり、体もだいぶ回復しました。 もう一度、音楽の頂点を目指そうと決心し、そして、生きているだけでも、音楽という仕事にかかわれているという幸せを感じなければいけないと、思いました。

 そんな時、当時、今の“宇多田ヒカル”の母親、“藤圭子”さんを育てた、超一流の作詞、作曲家“石坂まさを”先生が仕事のを手伝いを誘って下さった事がきっかけで、バックバンドを辞め、作曲編曲の仕事をするようになりました。この頃は、自宅へもほとんど帰れず、先生につきっきりでお供させて頂き、色々なメジャーレコード会社の社長や、有名プロデューサー、プロダクションの社長とたくさんの方々とお会いすることができました。この経験が、今の私の音楽業界での人脈、そして財産になっていることは間違いないです。
ちょうど30歳の時、初めて、私の曲が、メジャーCDとして作品になり発売され、テレビ東京の番組の主題歌になりました。 そして、由緒ある“第28回日本作詞大賞”にて最優秀新人賞作品を作曲し、当時私が歌を教えていた、タレントの“染谷まさみ”さんが歌を歌いました。 この頃私もテレビに何度か出るようになり、どこからとなく色々なプロダクションから“曲を書いてほしい”とたくさんの依頼が増え、 改めてテレビの凄さを感じました。しかし、当然の事ながら、交通事故の後遺症は、全くなくなることなく、仕事中でも、急に息苦しくなり、 誰にも気ずかれず、冷や汗をかきながらただ、耐えていました。

 この頃私のシンガーソングライターとしてのメジャーデビューをバックアップしてくださる方も、いらしたのですが、 なぜか、“私が世の中に出るのではなくて、私を慕ってくれる若い子を歌手として世の中に出してあげたい”と思い、 32歳の時、作曲、アレンジの仕事をするかたわら、“東京ミュージックスクールYOU”を立ち上げました。しかし、人生とは不思議なもので、 ちょうどその頃教えていた生徒と私が組んでいたユニット“PIXY”がプロデューサーの目に留まり、私自身も長年の夢であった アーティストとしてメジャーデビューすることができました。そして2001年には、(株)徳間ジャパンコミュニケーションズから、 全国発売、流通が可能なインディズレーベルをもらい、“徳間ジャパンコミュニケーションズ遊プロジェクト”をたちあげる事になりました。今から思うと、 精神的に、肉体的に、どん底に落ちかけていた私を救ってくれたのは、第一期生の生徒11人と、今まで音楽人生の中でいくつも の苦しみを乗り越えてきたプライドと、そして数え切れない本でした。色々なことで苦しんでいる方の手記やたくさんのハンディを乗り越えて 第一線で活躍している方々、とにかく私に色々な人生を教えていただきました。例えば、ヒューマンという昔の大作曲家は今から何百年前に精神病にかかり、 約5年間当時の精神病院に閉じ込められ、ほとんど治療ということが出来ず、30代半ばで一生を終えました。当時シューマンの妻が、 その5年間のすさまじい記録を一冊の本に残しています。その当時の医学レベルからいって正確にはわかりませんが、この大作曲家達も精神的なストレスを抱え、 それこそ命を削って音楽を作っていたに違いありません。今でいう“うつ病”にかかっていたという記録も残っています。今の医学レベルがその時代にあれば、 あの大作曲家達がもっともっと音楽を永く楽しめたのではないでしょうか。ショパン、モーツアルト、シューベルト、シューマン、 みな自分の作品が世の中に出る途中30代でこの世を去っています。私は、だからこそ今の時代に音楽を聴いたり楽しむ事が出来る幸せを色々な人に伝えたいのです。 生きていく上で、つらい事、苦しいことは誰にでもあります。そんな時美しい音楽を聴いたり、歌ったり楽器を弾いたら必ず癒されるはずです。 私は、自分自身の色々な経験を元に仕事の悩み、家族の悩み、恋人の悩み、その他色々なストレスを少しでも音楽と私を通じて軽減できれば、 そして色々なことを話合えたらなと思います。そして、音楽的な事はもちろん人間的に精神面肉体面に強くなるよう、その人の一番輝くところを引き出し、 完全マンツーマンで将来道に迷わないように徹底的に指導いたします。私がピアニストとして、作曲家として、アレンジャーとして、この音楽業界を 長い間やってきた上で、皆さんにぜひとも伝えたいことがあります。一つ目は、継続は力なりです。どんな苦しい状況でも、1年365日続けていける精神力と 体力があれば楽器にしろ歌にしろ必ず結果はついてきます。二つ目は運の法則です。スターになるには、たくさんの運が必要です。「運」とは運ぶとも意味し、 自分で運んでくるものです。自分から、運が落ちるような行動や、人付き合いを、まず、しない事です。生きることに努力している人は、 必ず運が味方になってくれます。そして、「流れに逆らわない」という生き方です。

 人生、自分1人の為に地球は回っていません。すべてが、自分の思い通りに行くわけがありません。どんなに努力していても良い時も悪いと時も必ずあります。その時その時の自分の状況や、周りの状況を感じて、良い流れなら突っ走る、あまり良い流れでない時は、おとなしくしている。少し難しいかも知れませんが、流れに任せる冷静さがとても大切だと思います。常に自分におごらず、謙虚であることが自分の限りない成長に発展していくものだと私は思います。そして誰にも負けないくらいに音楽に対して、歌に対して情熱を持ってほしいのです。

 最後に生徒の皆さんに約束できることをお話します。1つは私が今まで学び、経験した音楽の知識(歌、ピアノ、作曲、アレンジ、etc...)を伝えます。そしてレコード会社、プロダクション等、私が築いた人脈は要望があればご紹介します。そして皆さんの音楽の夢のスタートラインまで必ず連れて行きます。一緒に夢をつかみましょう。

森田 遊

東京ミュージックスクールYou